「恋の長瀬川」 教育から地域の活性化   東大阪〜八尾〜柏原をまたぐ一級河川「長瀬川」を唄った一曲

恋の長瀬川 まるいよしえ Keiko
恋の長瀬川 歌詞

恋の長瀬川

■ 恋の長瀬川に出てくる東大阪



■帝国キネマ撮影所と東大阪

大正6年(1917)に「天活」(天然色活動写真(株))によって小阪駅の北西に小阪撮影所が建設され、同9年(1920)「帝キネ」(帝国キネマ演芸(株))が買収。その狭さなどの理由で、昭和3年に長瀬に移転され、東洋のハリウッドといわれた長瀬撮影所が開設されました。

長瀬川周辺や金岡公園、長栄寺、鴨高田神社、小坂神社、彌栄神社、中小阪の旧村、小阪座、花園の津原神社周辺など市内のあちらこちらがロケーション地となっていました。

小阪撮影所近くの錦水湯は当時、俳優やスタッフがよく利用していたそうです。
近隣には映画関係者の寄宿舎や自宅がありました。
地元の人たちは、ロケを見に行くことを楽しみにしていました。
エキストラとして参加した人もいました。撮影所が普段の生活の中にありました。
不運にも昭和5年(1930)9月30日、火災により焼失。

製作陣のほとんどは京都太秦に移りましたが、一部の人たちは大阪の地から離れたくないという思いで「アシヤ映画」の名で独立プロを興し瓢箪山に撮影所を建設、数本の映画を製作しました。

帝国キネマ撮影所と東大阪

@帝国キネマ小阪撮影所
総面積570坪、建物44坪、舞台20坪程度のもので、無声映画、時代劇が主で「市川百々之助「霧島直子」などの人気スターが活躍しました。
大正12年(1923)度には60作品余製作されました。
跡地は住宅地化され、当時の面影は残っていません。

A帝国キネマ長瀬撮影所
帝国キネマ映画 撮影所機関誌第2巻
「生駒連峰が、なだちかな曲線を東北に張っている。小松の白い地面を美しく抜き模様にする。空気はよし、田園的な軽快?名香気が時には、あまねく漂ふ廣潤な土地・・・。さらばこそ、此處長瀬の地こそ凡ゆる方面からして見て、極めて、私達の希望條件に合致したものがあったのです。」と記されています。

昭和3年、敷地面積約17万坪、かまぼこ型の200坪のステ−ジ2棟のほかその他の設備も整っており、当時東洋一の規模を誇り、日本映画の近代化の基礎となった撮影所で「凍洋のハリウッド」といわれていました。

昭和5年キネマ旬報優秀映画第1位に輝いた「何が彼女をそうさせたか」はトーキー初期の頃の作品です。敷地には樟蔭学園の樟徳館(国の登録文化財)が建てられています。


恋の長瀬川 作詞作曲 ■長瀬川(旧大和川)

長瀬川は現在水路状の川となっていますが、以前は柏原市の安堂付近から河内平野を数本に分かれて北流していた旧大和川の主流で、広い所では、川幅が約700mもある大河でした。

川は天井川といって、上流から流されてきた土砂が堆積して、川底が両岸の土地より高くなっていて、そのため大雨が降るたびに洪水を繰り返していました。
そこで江戸時代中頃の宝永元年(1704)に安堂付近から堺方面を経て大阪湾に流れ込むように付け替え工事が行われ、狭い用水路だけを残し、周辺の川床を新田として開発しました。

当時の地形の面影は今でも川の西側付近に段差のついた地形を見かけます。
彌栄神社や小坂神社の西側の道も昔の川跡です。
帝キネ小阪撮影所や長瀬川撮影所もこの旧大和川の跡地に建てられていました。
ロケ地によく使われていた長瀬川沿いの松並木は、大正時代に植えられ第二次世界大戦の時、燃料としての松根油をとるため伐採されました。

現在の長瀬川には遊歩道が設けられ、市民の憩いの場となっています。
桜並木をはじめ季節ごとに楽しめます。
川には、カルガモ、白サギ、ゴイサギなどの水鳥、コイやフナ、時期によっては、ボラの稚魚の大群も見ることができます。
北は現在中央大通りまで通じています。それ以北は現在工事中です。
南は中央環状線を越えて八尾市・柏原市まで歩くことができます。


恋の長瀬川 作詞作曲 ■樟徳舘

この建物は、昭和12年頃に樟蔭学園の創立者である森平蔵氏の私邸として建築されました。
此処は、元々は帝国キネマ長瀬撮影所が建っていた場所ですが、昭和5年に火災により焼失した後、その跡地を森氏が入手したものです。

大阪有数の木材業者でもあった森氏は、日本各地から銘木を集め、最高の材料と技術を駆使して私邸を建築しており、木に対するこだわりが随所に見られる建物となつています。
外観から見る限りは全くの和風建築ですが、内部には和洋折衷の意匠が混在している点が特徴的で、平成12年(2000)には「造形の規範となり、再現が容易でないもの」として登録有形文化財に登録されました。

現在は大阪樟蔭女子大学の実習の場として利用されています。
※一般公開は行なっておりません。